150年の歩み
町の誕生
1874(明治7)年5月20日
当時の県令(県知事)は布達を発し、埋め立てられたこの地を「伊勢佐木町」としました。
写真上部が、埋め立て前の「南一つ目沼地」(伊勢佐木町などの埋地7か町)【石川町方面から望む】
吉田橋の浮世絵
五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」明治2年にイギリス人技師ブラントンが完成させた鉄製トラス構造の吉田橋。右側が伊勢佐木町。
多くの参詣客を集めた羽衣町の「弁天社」(明治2年に関内地区から移転)。近所に西洋料理の店などができ、「横浜教育水族館」の看板も見える。
1870(明治3)年
吉田新田の状況。
1900(明治33)年頃
大火の後、道幅を拡張し横浜一の繁華街になった伊勢佐木町入り口。通りの右側に「横浜館」、左側に「帝国商品館」という勧工場(今でいう編集型商業施設)が見える。
芝居・寄席・映画館
寄席と芝居小屋で「娯楽の町」へ
明治初期
賑町(現在の3・4丁目)の「賑座」前で、役者の絵看板と幟旗を眺める人々。
明治初期
「横浜名所」の伊勢佐木知町通り。画面左に、寄席「新富亭」の“丸に竹”の紋が見える。
明治初期
この写真には「横浜の劇場街」(Theatre Street of Yokohama)という説明がついている。
「白亜の殿堂」と言われたオデヲン座(中央左側のビル)。「封切」という言葉の発祥地ともいわれている日本初の「洋画封切館」。1911(明治44)年開館、興行の主役が芝居から映画に移る先駆けとなった。
1939(昭和14)年
邦画専門の「電気館」正面。「蘇州の夜」の公開を告げる看板が見える。
「開港50年祭」と
百貨店等のオープン
明治末期の伊勢佐木町 -横濱最大の繁華街-
1909(明治42)年
「開港50年祭」を祝う伊勢佐木町商店街。(現在の1丁目入口付近)
1909(明治42)年
開店当初の野澤屋呉服店・伊勢佐木町支店(後の横浜松坂屋、現在カトレヤプラザ伊勢佐木)
明治初期
大正5、6年頃に新築された有隣堂の店舗。(創業は明治42年)
2階に出窓風のバルコニーを持つモダンな建築様式は、大正ロマンを感じさせる。
明治42年に改築され、鉄筋コンクリート製になった吉田橋の開通式の模様。中央に見えるのは寄席・富竹亭、右手側が伊勢佐木町、左手の先が馬車道。
「大震災復興博」を
金色の王冠アーチで祝う
明治末期の伊勢佐木町 -横濱最大の繁華街-
1935(昭和10)年
震災の瓦礫で造成された山下公園で「関東大震災復興記念横浜大博覧会」が1935(昭和10)年に開催された。その3年前には東急電鉄 渋谷-桜木町駅間が開通しており、伊勢佐木町は大変な賑わいを見せていた。これらを記念して、初めて入口に金色の王冠を戴くアーチが設けられた。
1952(昭和27)年
1丁目の2丁目寄りに設けられた戦後初のアーチ。左のビルは松屋、右には不二家が見える。
1964(昭和39)年
先の東京オリンピックの聖火ランナーを迎える為に新たに建造されたウェルカムゲート。
1985(昭和60)年
リニューアルされたウェルカムゲートには「空飛ぶ帆船・日本丸」の装飾が取り付けられた。
3丁目付近の眩い光のアーチ。アーケードも設置されていた。
モダンな“浜っ子”が
「伊勢ブラ」を楽しむ
昭和初期
この頃は大正デモクラシーの影響下にあり、短髪・洋装のモダンガール「モガ」と山高帽の背広姿のモダンボーイ「モボ」が街中を闊歩した。
アスファルト・ブロックで舗装された伊勢佐木町通りには、まだ少なかった乗用車の姿も見える。1928(昭和3)年から、日本初の「歩行者天国」を実施した。
1929(昭和4)年
増築完成時の野澤屋本館。
1935(昭和10)年
暮れの通りを行きかう人々。ウィンドゥショッピングを楽しんだ人々はモリナガキャンディストアや不二家で休息。デパートで買い物をし、有隣堂で好みの本を手にした。
米軍の接収解除を求めて
吉田橋の上を行進する米軍のパレード。橋の向こう側が伊勢佐木町方。
米軍が進駐し、野澤屋が「PX」となり不二家は将兵用クラブに。主な建物が接収された。
1950(昭和25)年
将兵用クラブになった不二家の前でくつろぐ米兵。
1953(昭和28)~1954(昭和29)年頃
伊勢佐木町商店街(5丁目)を共同でパトロールする米軍MPと警察官。
1954(昭和29)年
「原水爆使用禁止」の横断幕を掲げた「平和祭」の神輿が行く4丁目商店街。画面中央上に「湘南百貨店」が見える。
1955(昭和30)年
接収解除後の野澤屋1階エレベーター前。当時の女性の憧れの的だったエレベーターガール。この頃有隣堂も接収解除されたが、不二家が返還されたのは1958(昭和33)年になってからだった。この後、「接収」時代を終え、高度成長期へ向かっていく。
のりもの
送迎バス・根岸線・市電・そして飛行船・飛行場も
野澤屋(後の横浜松坂屋)の昭和初期の顧客送迎バス、伊勢佐木町への乗り物として(横浜駅―桜木町駅―伊勢佐木町間)を無料で運行した。モガ・スタイルのバスガールは人気の的だった。
1929(昭和4)年
横浜上空を通過するドイツのツェッペリン伯号の飛行船。世界一周の旅の途中、日本にも立ち寄った。
1948(昭和23)年
接収された土地に敷設された小型飛行場(若葉町付近)。右側に伊勢佐木町商店街が見える。
1964(昭和39)年5月19日
根岸線開通の日、吉田橋の上を走る祝賀電車。
1972(昭和47)年3月
羽衣町を走る最後の市電。
安全に楽しくお買い物を
本格的な「歩行者天国」を実施
1958(昭和33)年
新しいアーチで「開港100年祭」を祝う伊勢佐木町商店街
1962(昭和37)年
休日に実施された「歩行者天国」の街頭風景。「クルマ天国」から「歩行者天国」への流れを復活させた。
道幅いっぱいの車で混雑する平日の風景。
1970年代
本格的な「歩行者天国」でにぎわう伊勢佐木町商店街。安全に楽しく買い物できる環境を整えた。
道の真ん中にはビーチパラソルが並び、涼をとる人々で賑わった。
1975(昭和50)年
「伊勢佐木町誕生100年記念祭」の一環で開催された、再現された吉田橋関門での合同結婚式。中央は当時の長洲一二神奈川県知事。
~緑と太陽と青空がいっぱい~
「イセザキ・モール」誕生
横浜市の後援を得た街の再開発事業で実現
1978(昭和53)年
明るい陽光が降り注ぐイセザキ・モールを歩く人々。歩道と車道の区別をなくしバリアフリー化で、24時間「歩行者天国」。
(有隣堂所蔵)
一新されたイセザキ・モール1・2St.を進む神奈川県警音楽隊パレード。
歩道と車道の区別をなくし、電線を地中化する掘削工事中。
アーケードも完全撤去。約11か月の大工事だった。
完成直後のイセザキ・モール、約70本の街路樹も植えられたばかりで低木のまま。
アーチスト
青江三奈・ゆず・クロスストリート
1968(昭和43)年に発売された名曲「伊勢佐木町ブルース」は、ブルースの女王 青江三奈さんの歌唱力や、その独特なフレーズ、そしてあの「ため息」により大ヒットした。
2001(平成13)年
「伊勢佐木町ブルース歌碑」は2001(平成13)年に建立。
多目的イベントスペース「クロスストリート」は、フォークデュオ「ゆず」が名付け親。
かつて横浜松坂屋屋上にあった「デビュー前の頃を描いた壁画」には多くのファンが訪れていた。
かつて横浜松坂屋店頭にあったモニュメント。
伊勢佐木町の古地図
※地図画像をクリックすると、大きい地図が表示されます。
関東大震災前後の伊勢佐木町一丁目・松ヶ枝町(その後の伊勢佐木町二丁目)
渡邊政次さん(港屋宝飾舗3代目)が、1975(昭和50)年頃に震災前後の姿を振り返って描いた手書き地図をデータ化したものです。
※判読できない文字は赤で示しています。
昭和10年頃の伊勢佐木町一・二丁目
渡邊政次さん(港屋宝飾舗3代目)が、1975(昭和50)年頃に昭和10年頃の姿を振り返って描いた手書き地図をデータ化したものです。
※判読できない文字は赤で示しています。
昭和10年頃の伊勢佐木町一・二丁目
渡邊政次さん(港屋宝飾舗3代目)が、1975(昭和50)年頃に昭和10年頃の姿を振り返って描いた手書き地図をデータ化したものです。
※修正部分は青字で示しています。店名白ヌキは昭和60年現在営業継続中です。